頸損だより2006冬(No.100) 2007年1月27日発送

「頸損だより」誌面と頸損連の歩み
5.1999−2001(第70号−第81号)
【鈴木千春さん編集部長時代】

[年表]※太字:頸損連と頸損だよりの動き 細字:障害者運動一般の動き

1999
4月、事務局通信(月刊)の発行開始。
鈴木が編集部長になる。会計が赤瀬から福山和寿へ交代。比嘉が会計監査になる。
春に会員相互の勉強会「就労あれこれ」、秋に「ユニバーサルデザイン」の講演会を開く。
2000
鳥屋が事務局長になる。
この頃から他団体との交流や共同活動深める。アクセス21(アクセス問題への他団体共同取組)、UFアパレルCAD研究会、神戸新長田商店街ショップモビィリティ、神戸Vサークル、東大阪高校との交流、雑誌「wawawa」の屋台マップ協力、京都頸損連との年1回共同レク(初回はピクニックdeピクピク)など。
会員相互のフォーラム〜ビューティフル・ライフ〜趣味あれこれ〜を開く。
5月 交通バリアフリー法公布(11/1施行)
メインストリーム協会 廉田俊二氏を招いて「障害者版おもろい生き方教えます!」講演会。
異性介助問題についての勉強会を開く。横須賀俊司氏。
地域交流会(大阪頸損連が地域に出かけていって会員と交流)を始める(奈良編)。
2001
兵庫頸損連設立準備室を三戸呂が呼び掛け人で始める。
大阪会員吉田憲司を中心に人工呼吸器使用者のフォーラム「マイライフ・マイブレス」を開く。これをきっかけに吉田が役員会事務局メンバーとなり会員MLの管理者となる。
大阪のCILマップを作り機関紙「頸損だより」の特集とする(7/1 CILあるる設立)。
大阪バリバリマップ(中部障害者解放センター)作成に協力。
せきずい基金、脊損連、頸損連の3団体共同で初めて厚生省交渉。人工呼吸器使用者の問題が交渉内容。
無年金障害者問題の関西の会に大阪頸損連加盟。谷川の取り組み。
介助犬アカデミー運営団体委員加盟。会員木村佳友シンシアの取り組み。
星ヶ丘厚生年金病院との交流再開。
泌尿器関係、褥瘡関係の会員勉強会開く。

雑誌「wawawa」取材班とともに、大阪の屋台を取材(第75号、2000.9.12)


●レジャースポット情報「車椅子YOU−マップ」「車椅子でシネマップ」

森雄一さんによる「車椅子YOU−マップ」は、ボランティア部長でもある森さんが実際に出かけた面白スポットなどを紹介。第71号(1999.9.18)から連載スタート。ラーメン紀行、夜景特集など。赤尾広明さんによる「車椅子でシネマップ」は、自称映画中毒の赤尾さんが電動車椅子で自ら観てまわった映画館を紹介。また、観た映画は「シネマに首ったけ」コーナーで紹介。第72号(1999.12)から連載スタート。どちらも積極的にガンガンと車椅子で出かけている様子が伝えられている。車椅子であっても楽しむことが基本!


●大阪頸損&京都頸損合同レクリエーション交流

隣の支部である京都頸損連と2000年から合同行事を年一回開催。第1回目は大阪万博公園での交流「ピクニックdeピクピク」を開催(第76号、2000.12.16)。第2回目は2001年に「ボウリングdeピンピン」を京都のボウリング場で開催。ボウリング投球台を事前に京都頸損連と共同で手作り制作するところから始めた。その後もボッチャ大会やバーベキュー大会、たこ焼きパーティーなど、6年以上、現在も続いている。


●自立生活センターマップ

2000年3月大阪頸損連の行事で出会ったメンバーらが2001年に自立生活センターあるるを設立。ちょうどこの頃大阪近郊に多数の自立生活センター(以下、CIL)ができていた。会員が大阪の広範囲に在住していたこともあり、各地域のCILを紹介しようと約2ヶ月の間に20ヶ所のCILを鳥屋とあるる若手メンバーで訪問し、マップ作りに取り組んだ。第79号(2001.12)に特集で掲載。


●無年金障害者問題への取り組み

2001年学生無年金障害者29人が「障害基礎年金の不支給処分の取り消し」を求めて、全国9地裁に訴訟を起こした。頸損会員の中にも学生無年金障害者は何人もおり、裁判への闘い、傍聴も続けられてきたが大阪地裁では2006年1月に不当の敗訴。現在、大阪高裁に控訴。年金問題への取り組みは谷川さんが第52号(1994.12.27)から継続して掲載している。


1999-2001(第70号−第81号) 活動トピックス

■電動車椅子試乗会

電動車椅子はわれわれにとって大きな可能性を持たせてくれる身体の一部と言っても過言ではない。車椅子を押してもらわなくても自由に自分の意志で動き、行動範囲も広がるからである。この電動車椅子試乗会は、われわれ四肢麻痺者にとって電動車椅子が生活の幅を広げるために有効であることをまだ乗っていない仲間に伝え、複数のメーカーの実車に試乗しどのタイプが自分に合っているか試せるチャンスとなった。この行事を機会に電動車椅子に乗るようになった会員もいる。1994年「電動車椅子に乗ってみよう会」から始まった当行事。当初は、参加メーカー2,3社だったのが、2000年には車椅子メーカーを中心にリフト関連メーカーも合わせると10数社の出展。参加者も 100名を超えるほどに。社会にバリアフリーという言葉が一般的に使われるようになった頃である。参加した会員からの感想を拾ってみる。


・業者が電動車椅子の説明に来るのかと思っていましたが、説明から講習まで車椅子の方がすべてやっておられるのには、驚きました。考えてみれば、普段から車椅子を使用している方が一番の指導員だったのですね。

(第51号、1994.10.1)


・やっぱりはじめは、上手いこと操縦が出来なくて怖かったけど、時間がたつにつれて結構いけると思うようになりました。自分が考えていたより、怖くなくて操縦も難しくないんだてゆうのが乗ってみて初めて分かった事なので、一度乗って見て本当に良かったと思いました。(…中略…)

電動車椅子に乗るようになってからは大分変わりました。手動の車椅子の時は、どっかに行くときは必ず誰かに押してもらわなければ行けなかったのです。どんなに近くても押してもらわなければ行けなかったのです。でも今では一人で行ける用になりました。行動範囲も広くなったし、外に出る回数も増えました。それに、自分も何か変わったような気がします。

(第63号、1997.10.28)


第71号、1999.9.18


私と頸損だより
「頸損会にかかわるようになって」  川畑 勲

今回頸損だよりが創刊100号ということを聞いて、大変おめでとうございます。

僕が頸損会にかかわるようになったのは、今から20年ぐらい前の高校2年生の夏休みに厚生年金病院に再入院していたときに、会員の河野さんと江田さんが訪ねてきて頸損会というのがあるけれど入らないかと誘われたのがきっかけです。

僕が入ったころの頸損だよりは今よりももっと薄い冊子でイラストも少なかったので、僕が描いたイラストを投稿するようになりました。初めはイラストに名前を入れていなかったのだけれど、当時の編集長の坂上さんがイラストの横にアルファベットのISAOと入れてくれたので、すごく書きやすいし自分のサインにすることに決めました。編集長が中川さんに変わったころには冊子も分厚くなり表紙のロゴも変えることになり、僕に新しいロゴを考えてもらえないかと依頼があったので、何種類か送ってそのひとつが採用されることになりました。編集長が松崎さんに変わってからは、冊子のページ数が限られてきたのでイラストを載せるスペースも少なくなってきましたが、これからも新しい作品を描いたときには、また送っていきたいと思います。

そして頸損会の中でも文化イベントという行事がありその行事にかかわるようになったので頸損会の役員会にも出席するようになり、今では役員としていろいろとお手伝いさせてもらっています。これからもよろしくお願いします。


川畑さんがデザインした表題のいろいろ

第22号、1987.11.25

第27号、1988.8.25

第66号、1998.7.8


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