頸損だより1999秋(No.71)

帰ろうよ、お父さん!

木村節子(ペンネーム こすもす)

白いベッドに父は横たわっていた。
枕元では不安げな顔で母と姉が立っていた。
細い透明な管が父の腕に這っている。
「おとうさん…」
近くにより、そっと呼んだ。
擦り傷で赤らんだ顔がかすかに動き、父はわずかに目を開けた。
私は父の手をにぎりしめた。
父はかすかに笑い、くぼんだ目をまた閉じた。


父が倒れたという知らせを聞いて駆けつけた私たちに、脳血栓だと医者は告げた。動脈壁にできた血栓が血流を止め、脳への酸素供給が絶たれてしまったために脳細胞が損傷を受けたというものだった。右半身の麻痺と言語障害は免れないと医者は言った。『車椅子が必要になるでしょう』−それは私たちにとって晴天の霹靂としか言い様がなかった。車椅子は私たちには無縁のものと思っていた。私は涙があふれその場にしゃがみこんだ。


父は欄を育てていた。縁側や裏庭に置かれた幾鉢もの蘭は、季節になると、それぞれの花弁から甘酸っぱい香りを家中に漂わせ、訪れる客をも愉しませていた。山から帰ってはお茶を飲み、古い友人と欄の話に打ち興じていた。また胸まである黒い長靴をはき、川にも良く出かけていた。自分で編んだ網を川に投げる。餌に集まっていた魚を網と共に一気に引き上げる。鯉だの鮎だのはえだの獲ってきては近所や知り合いに分けていた。父は口数の多い方ではなかったが、そうやって仲間との交流を楽しんでいた。


山間から流れ出る川の水を利用して、大きな生け簀を作っていた。そこへ獲った魚を放し、時々餌をまいていた。男の子が生まれたら一緒に釣りに行くのが父のいちばんの夢だったらしい。しかし、願いとは裏腹に望みをかけた最後の4人目も女だった。「女はつまらん」と、時々つぶやきながら、いつも一人で出かけていた。

老人クラブの人たちと共にさまざまな活動にも参加し、相談にも親身になってのっていた。その分、人一倍健康には気を遣っていた父だったが、やはり82歳という高齢には勝てなかったのだ。私たちはただ無言で、眠る父の様子を見守っていた。


私たちは付きっきりで父を介護することにした。夜は交代で病院に泊まることにし、見舞い客の多い昼間は母が付き添うことになった。

いちばん気をつけなくてはいけないのは『じょくそう』だと看護婦は説明した。『じょくそう…』それは床ずれの事だということを私は思い出した。頚髄損傷について記された資料をもらった時、その言葉の存在を初めて知った。最近もらったその資料にはどの部位に褥瘡ができやすいかを絵で説明してあったが、それまでの私にはほとんど興味がなかったので本棚のどこかにしまったままだった。

褥瘡が一度できてしまうとなかなか治り難いらしく、出きるだけ体位を変えてやる必要があった。長時間同じところに体重がかからないように円座やクッションを当て、姿勢を変えるようにしてやらなければならなかった。また、シーツや寝巻きのシワも褥瘡の原因になると看護婦は説明してくれた。看護婦は体位の変え方を私たちに説明してくれた。尿や便の失禁があったためにオムツもこまめに取り替えなければならなかった。父は体格が良かった。その体を動かすのに慣れた看護婦も苦労した。


私たちはその日の父の様子をノートに書きつけることにした。体温、顔色、献立、食べた食事の量、訪れた人の名前、届けられた花の名前、父が笑ったこと、話した言葉、何でも書いた。母は見舞い客が訪れると、そっと部屋の外に出て父の様子を低い声で話した。姉はリハビリと称して父の動かなくなった手足をマッサージしたり、関節を曲げたり伸ばしたりしていた。ときに麻痺した手足はすぐにだらりと滑り落ちた。バルーンが差し込まれていて、はずれはしないかと気をつかった。オムツを替えたり、からだの向きを変えるたびに父の体が下のほうへ少しづつずれて、土踏まずのところがベッドの縁につかえた。褥瘡になりはしないかと気になる。何とかして上へずらそうとするが、なかなか思うようには動いてくれなかった。看護婦を呼んだ。


「あのう、ちちがまた下がってきたんです。上げてもらえませんか…?」 看護婦は何を思ったのか一瞬怪訝な表情を見せたがすぐ来てくれた。ベッドのガードを利き手でつかまえて、利き足で上へ踏ん張るように父に練習してもらえばリハビリにもなり、体の移動がうまくできるということだったが今の父にはまだ無理なようだった。


9時になると消灯だ。まわりがやっと静けさを取り戻す。私は壁にもたれかかり、コーヒーを口にした。父もコーヒーが好きだった。体によいといって黒砂糖を混ぜて飲んでいた。そういえば私たちは父と遊んでもらった記憶があまりない。父だけは家族とはいつも別の場所にいたような気がする。ただ覚えているのは子供のころ、正月がやってくると花柄の大きなゴムまりを買ってもらったことだ。私たちは父の帰りを待ちきれず橋のたもとまで迎えに行った。父の姿が見えてくるとわっと歓声を上げて駆け寄った。そして赤や黄色に彩られた美しい花まりを父の手から奪うように受け取ると、それを両手に抱きかかえ父を取り囲むようにして帰ったものだ。


父は眠っているのか…。ブラインドの隙間からかすかに月の光がもれている。コーヒーをまたひとくち飲むと父のそばに顔を近づけてみる。良く見えないので顔すれすれまで近づけてみる。すると父は目を開けてにっと笑った。私はびっくりしたがおかしくなって笑った。二人顔を見合わせて笑った。ブラインドを上げると、淡いほのかな光が窓辺を照らした。私は父の枕元から月が見えるか自分の頭を並べてみた。少し欠けた丸い月が夜の空にあった。

「お父さん、ほら月が出てるよ、みえる?」

父はゆっくり顔を上げ夜のしじまに目を向けた。そして声にならないしゃがれた声で 「あ…ぅ」 と言った。


母は朝いつも早めに来た。熱いお湯に浸したタオルを絞って父の顔と両手を拭き、髪をすいた。そして慣れた手つきで顎のひげを剃っていった。朝食が運ばれてくるとベッドを上げ上体を少し起してから父の首元にエプロンを当てた。熱いので、息を吹きかけながらスプーンでおかゆをすくう。父は母の運ぶスプーンの先を目で追っている。そして幼子のように口をあけた。頬をすぼめてそれを飲み込む。その姿にあのころの元気な父の姿は微塵もなかった。私はそんな父がいとおしくてならなかった。

父の耳元で母は言った。「うちは女の子がたくさんいて良かった、男の子じゃったら手伝いにならんかった。」 父はこくりとうなずいた。


腰の下のほうとくるぶしが赤くなっているのに母が気づいた。褥瘡ができた、と母は慌てて看護婦を呼んだ。体を浮かすようにクッションを当てなおすと、看護婦は軽く何度もマッサージをし薬を塗ってくれた。しかしどうしても褥瘡は麻痺した側にできやすいらしい。

妹が子供を連れてきた。父の表情がとたんに和らぐ。うれしそうだ。姪は父の顔を見るなり泣いた。「じいちゃん、だいじょうぶ?」と言って泣いた。大きな目から涙の粒がこぼれていた。


10日ほど続けて泊った時だった。尾骨のところがやけにむずがゆい。自分の尻をさわってみる。皮がむけかけてきているようだ。褥瘡だろうか?畳の上にじかに寝るせいか尾骨のあたりの皮が擦りむけてきたらしい。マッサージをしてから褥瘡の薬を自分の尻に塗った。夜は円座を借りて寝ることにした。姉がそれを見て「世話の焼ける介護人だ]と笑った。


生けすが気になる、と姉が言い出した。近くの人が餌を撒いてくれているらしいが、魚は元気にしているだろうか。しかし母はそこにはもう行きたくないと言った。父はそこに倒れていたからだ。いずれは水を抜いて魚もみんなにくれてやると母は言った。

炎天下に倒れている父を見つけた母は身がすくむ面持ちでよろけるように父に駆け寄った。母は必死になって父に呼びかけた。かすかに応えた父をみて母は近くにあった容器にすぐさま川の水を汲むと父に飲ませた。父は喉を鳴らせてその水を飲み干したという。もっと早く気がついていれば…、と母は何度も繰り返し言いながら近くの家から救急車を呼んだという。


姉と二人で生けすに行ってみることにした。私たちはめったに来ることのない場所だったが、父がいつもやっていたであろう餌を池に撒いた。水面に小さな輪がたくさんできたかと思うと突然池の中が砂煙で濁った。たくさんの大きな魚の腹や尾が見え隠れするのが見えた。父とあまり触れ合うことのなかった時間を取り戻そうとしている、私はそんな気がした。


父はリハビリが必要だった。そのために病院を移らなければならなかった。市内の大きな病院に父は移った。私たちはもう父に付き添う必要がなくなり実家を後にしたが、その後も何度か父の様子を見に帰った。病院では上体を起すことからはじめ、ベッドに腰掛ける、車椅子に乗り移る、そして歩行訓練とひとつずつ段階を踏んで機能回復の訓練が始まっていた。しかし父は痛いと言ってリハビリを時々嫌がったと言う。母はそのたびに「早く家に帰ろう」と励ました。


あれからちょうど1年が経った。父が退院することになった。父は片手と片足をつかい、上手に車椅子を動かしている。食事もスプーンを使って一人でできるようになり、オムツもほとんど要らなくなった。しかし、言葉が戻ることはなかった。父は身振りと短い言葉で自分の言いたいことを伝えようとするが、伝わらないともどかしそうに軽く舌打ちした。私たちは父の言いたいことを理解しようと、必死になって思い思いに頭に浮かんだ事を口にする。しかしそのたびに父は首を横に振った。そしてしまいにトンチンカンな答えに笑い出してしまうのである。私たちも仕方なく笑った。


自分の考えや気持ちや感情を伝えることのできないことはどれほどつらいだろう。黙っていることを強いられているのと同じだ。父は自分だけが取り残された不安な気持ちになっていないだろうか。母は「ゆっくりでいい、無理に話さなくても言いから」と励ますように言った。私たちはなるべく言葉を短くして父に語りかけ、首を縦に振るか横に振るかで父が応えられるように話しかけた。


我が家の玄関には長いスロープができた。居間との段差もなくなった。新しいリクライニングベッドとトイレ、そして新しい車椅子が届いた。この家に主が帰ってくる。父のいない家に帰るのは寂しいと私たち姉妹、みんな思ってきた。しかし、これからの介護は母一人でやっていかなくてはならない。心配になり聞いてみた。すると母は「新婚に戻った気分じゃわ、食事は何を作ろうか、庭に出たらどこでお茶を飲もうか、散歩はどこに行こうかと今からそわそわしている」と笑って答えた。母は私たちに余計な気遣いはさせまいと明るく振舞っているようだった。しかし母も介護の心配より夫婦一緒にいられることの方が遥かにうれしいのかも知れない。 母が疲れたらいつでも手伝いに帰るつもりである。


他人事と思っていた車椅子が私にはいちばん身近なものになった。庭のコスモスが今年もまた咲き始めている。


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